Who are Special Needs Children?

身体的障害や学習障害などがあって、学校生活に参加するために何らかのサポートを必要としている子どもたちは、英語環境では Special Needsと呼ばれています。

政府が実施するアセスメントテストでSpecial Needsの子どもであると判断されると、学校では、その内容に沿ったサポートを受けられることになっています。ニーズの程度によっては、マンツーマンの個別サポートが提供されます。

Special Needsの子どもたちのニーズが個々に違うことを考えれば、必要に応じたサポートを個別に判断され、学校という社会に参加できるように(あるいは、参加できるようになるまで)側らでその子どもを充分に理解できる大人が見守りつつ、手を差し伸べられる体制はとてもいいですよね。


最近になって「Special Needsの子ども」という言葉について、考えたことがあります。

実はわたしたち家族が住むカナダBC州では近年、学校の先生たちが何度かストライキを行っています。現在も労働闘争が継続中で、この1年で休校が3日、まともな成績表は一度も受け取れていません。先生たちは、子どもたちの学校環境をよくするという意味で、自分たちの労働環境の改善を訴えています。

中でも、政府財政が教育予算をカットが起因して、特にこのSpecial Needsの子どもへのサポートが現場で行き渡らないことが問題視されています。担任の先生は、Special Needsの生徒とまで認定されていないまでも、実際には学習についていけない、学校という社会に充分に適応できていない子どもを一人で見ることになります。その結果、Special Needsではない子どもたちが充分な学習の機会を得られないという状況も引き起こしていると言われます。

そのような問題は、おそらく日本でも学級崩壊の問題などで同じように指摘されていませんか?わたし、とっても違和感を感じるんですよね、この話題に。

この問題が、Special Needsの子どもだけを個々に、その他の子どもを束ねて扱ってしまうように思うからなのだと思います。学校という社会に無難に参加できるようであれば、その瞬間から個々へのアテンションがなくなってしまうような印象があるからかな。もちろん現場では、とても頑張ってくれている先生がいて、可能な限りどの子どもにも個々の注意を向けてくれています。でも、限界があるのも事実。

語弊があるかもしれないですけど、本来の意味で言うならば、子どもはみんなSpecial Needsですよね。必要としているサポートは内容も程度も十人十色で百人百様です。じゃあ、誰が子ども一人一人のニーズを最も的確にくみとって、最も必要としているサポートを的確なタイミングで提供できるかって言ったら、そこはやっぱり先生じゃない、学校じゃない、親なのだなと思ってしまいます。

親はその子が将来社会に自力で適応していけるまでの責任があります。っていうことは、大人社会に適応できるようになるその日まで、自分の子どもはずっとSpecial Needsの子。そばで見守って、一番必要なサポートを必要なタイミングで差し出してあげたいです。ずっとずっとSpecial Needsの子どもでいさせてあげたいです。

Mr. Chan, Our kids need you.
今日の記事は、長引く教育行政問題やら労働組合問題やらのおかげで、来年から学校を去らなくてはならなくなったある先生のことを思いつつ、考えたことを書いてます。子どもたちにあんなにも慕わる、子どもたちの一人一人と接して、キンダーからG7までの全校生徒を誰より知っている先生を結果として追い出してしまう、子どもが求めていることを本当の意味で最優先に出来る体制になっていない教員労働組合、言い分はいろいろあるだろうけどやっぱり間違ってます。